散髪は年1回。

雑記です。

33年前の8月14日。

 第100回夏の甲子園大会が盛り上がってます。酷暑の中、なんやかやと言われながら、毎試合、大観衆が詰めかけています。

 現在発売中の『Number』958号〈夏の甲子園 第100回大会記念特集PARTⅠ〉で、「史上最強高校を探せ。」と題した特集を組んでいます。表紙(下の写真)は1985年の決勝、PL学園サヨナラ勝ちの直後ですね。右が清原和博です。

 同誌では、最強チームを決める読者アンケートを実施。その結果、1位は1998年横浜(東神奈川)、2位が1985年PL学園(大阪)、3位が1982年池田(徳島)、以下1987年PL学園、2010年興南(沖縄)、2012年大阪桐蔭、2011年日大三西東京)……と続きます。清原と桑田真澄の“KKコンビ”で初優勝した1983年のPL学園は13位でした。

 ワタシが個人的に選ぶとしたら、やはり1985年のPL学園です。高校野球で“KKコンビ”を超える選手はいないと思います。1985年の夏は、2人にとって5季連続出場の最後の大会。バリバリの優勝候補で、そのプレッシャーに負けず、圧倒して優勝しました。5試合で総得点57、総失点15はすさまじすぎです。

 33年前の1985年8月14日、ワタシは友人と甲子園球場にいました。当時のワタシは学生で、友人の自宅のある横浜から自転車で甲子園を目指して出発し、2日前の8月12日に到着したところでした。その日、日航ジャンボ機墜落事故が発生。友人と飯を喰いに食堂に入ったら、テレビでそのニュースがひっきりなしに流れて大騒ぎになっていました。

 ワタシと友人は甲子園球場の前、高速道路の高架下にテントを張り、そこで寝泊まりしていたのですが、徹夜組からよくのぞき込まれて、友人はおちおち寝ていられなかったと言います(ワタシは爆睡していました)。今、外野席は有料(500円)ですが、当時は無料です。甲子園にいる期間は、友人と、試合を見まくっていました。

 8月14日は、第2試合でPL学園が大会初登場。29-7で日大山形に圧勝しました。1試合29得点は史上最多、毎回得点も大会史上唯一の記録となっています。このゲーム、清原は2安打1打点を記録しましたが本塁打はなし。ただし、9回表に4番手投手として登板しました。アナウンスが流れたときの球場のどよめきと大歓声はいまだに覚えています。

 清原登板時のスコアは29-5、一死満塁でした。投手・清原は連続与四球、つまり押し出しで2点を奪われますが、残り2人を打ち取り、交代完了。ホームインした2人も、清原が出した走者ではないので、自責点はゼロです。

 投手・清原をこの目で見たことは長らく自慢の一つでした。これが最初で最後の投手・清原だと思っていました。が、今回改めてネットで調べてみたところ、清原は春のセンバツでも登板していたことがわかりました。同年3月29日の対浜松商(静岡)戦。このゲームで本塁打を放った清原は、8点リードの8回表、一死満塁で3番手投手として登板します。2人を打ち取り、名火消しぶりを見せると、9回は圧巻のピッチング。先頭打者を遊飛のあと、連続三振で仕留めていました。残念ながら、センバツでの投手・清原の記憶はありません。ワタシとしたことが、リアルタイムで見ていなかったのか。そんなハズはないのに……。少しショックでした。

 話がそれました。

Number』の読者アンケートで1位になった1998年の横浜は、松坂大輔が決勝でノーヒットノーランを記録するなど、ドラマティックではありましたが、準々決勝のPL学園との延長17回の死闘、準決勝の明徳義塾戦も0-6から逆転と、危うい場面が多かったのも事実です。というわけでワタシは、ほとんど危なげなかった1985年のPL学園のほうが上回っていると思います。

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別にワタシは『Number』の回し者ではありませんが、8月16日(木)には〈100回大会記念特集PART②〉「夏の甲子園100人のマウンド」が発売になります。